三谷祐児の国語工房

長年培ってきた国語の指導方法を公開しています。
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先人の言葉

同郷の川口義克先生、井上順理先生、そして知の巨人西晋一郎先生の言葉を紹介します。

 【川口義克先生】

『川口義克先生教育語録』中西敏編より

  1 ことばは行動の蔭にいるとき最も光って見える。   

  2 できのわるい子があればこそ私が教師としてはたらけるのである。  

  3 読めない本でもいつかは読もうと思って買う。これも読書だ。

  4 「書いたかいがあった」と思わせることが作文をつくらせる一つの秘訣である。役に立った、発表してもらった、先生が批評してくれた、友だちが読んでくれた、文集に出た、朝礼のとき読まれた。さらには印刷された、本になった、新聞に出た、等々。その機微の分らぬものは作文教師にはなれない。

  5 自分はできると思い出したとき、子どもは飛躍をはじめ、大人は退化しやすい。

  6 無味の水が最高の味だとわかるまでに人間はどれほど種々さまざまな味に出あうことか。

  7 学問は結論も大事だが、経過の中に珠玉のあるものです。井上順理先生の博士論文なども経過の中に実に光る玉があります。

  8 最近の森信三先生には死を前にしての精進といったものを感じます。恐らく先生はその一文一文を絶筆のつもりで書いていられるかと思う。まことに心打たれる悟道の行者である。

  9 峰地光重先生の朗読を聞いた。子どもにほれ、文章にほれ、そして自分の仕事にほれていなければあんな読みはできない。何とあたたかくてやわらかでいて胸に迫ってくることか。

 10 「さいた。さいた。さくらがさいた。」を一年生もおもしろいと学習し、中学生もなるほどそうかとうなづき、大学生も耳傾けて聞き入るような授業ができる人を優れた国語教師というのである。

 11 選ぶということは捨てるということでもある。一人の女を選ぶということは、他のすべての女をあきらめるということである。文章の表現ことばの選択でも同様のことが言える。

 12 三十才ごろまでは、何かやらずにおれんような男、四十代では仲間の中でめきめきと頭領たる器を見せる男、五十代ではわんさと青年教師にとり囲まれて仕事する男、そんな教師になりたい。

 13 老人扱いされ、親切を受けるのは人生第一の幸福とは思えぬ。カクシャクとして壮者を凌ぐこそ老者の願いだ。働きつつ倒れるのこそ正に天恵の最たるものである。

 14 十九の春教師となった。毎日がうれしくて十キロの道道、授業のやり方を考えつつ自転車のペダルを踏んだ。初心ほどうれしいものはない。老いの今若い日の純情のみが霞を通して思い出の中に光る。

 15 子どもひとりひとりをほんとうに考えてくれた先生、何でもよく知っていて凛としたところのある先生、清潔でうそをいわず裏切らなかった先生、こうした先生が一番えらい先生として頭に残っている。今この評価基準を私にあてはめる時がやってきた。

 16 緊張と精進の途上でボキッと見事に折れきってしまう。そんな生涯を送りたい。後に残る美名もなく悪名もなく。波紋のおさまった湖面にもにた清閑さの中にー。

 17 自分より遥か年若の俊足に頭を下げる満足感、大先輩の体験談に聴き入る謙虚振りはそうむつかしくない。同じ道の同年輩を真底心から誉めることが最もむつかしい。

 18 芭蕉は弟子を愛しつつ、一方でいつも孤独の旅を続けた詩人だった。

 19 己は清貧に安んじつつ、部下の地位と俸禄の向上に力を尽くす、これが長というものだ。

 20 この世の虚しさを知るが故に真実に生きるのだ。人間ははかないからこそ充実した生活を望むのだ。私が死ぬからこそ力の限り生きるのだ。人類は滅ぶから私は美しく咲くのだ。極楽に生まれようとして努力するのではない。

 21 作文は考えてから書く、構想を立ててから書くというのは一つの原則である。しかし、書きつつ発見する、書くから問題を見つけることも真である。そうしてしばらく書かずにいると、書く芽がとまってしまうこともまた真である。

 22 戦前の国語人は綴り方・読み方人の二つの型があった。読み方人に温厚篤学の士が多かったのに対し、綴り方人には多少の反骨精神と迫力とがあった。【中略】二つの型に共通したものは共に情熱的な人だった。【中略】そしてもう一つ共通したものは、どちらも人の知らぬところでものすごい読書をしていたことである。

 23 【前略】多年教育をやっているうちに、行動の中に思考を発見するということの意味がわかってきた。後年安良岡康作氏が、「われわれは、思考することに従って書くというよりは、書くことに従って思考してゆくことの方が余りにも多い」と言うのを聞いたときには、自然に受け入れられるまでになっていた。

 24 作文六則

    一、感 動 ハッとする心を失わず、見ることに感動するとともに、書くことそのことに、また書いたものに感動する。

    二、自 信 自分の心を信じ、自分のことばを信じ、自分の人柄を信じる。卑屈になるな。

    三、練 る 思考をねり、ことばを選び、舌頭千転する。沈思して読み、声をあげて読み、書いて読む。

    四、客観視 熱い中に作りあげ、さめてから冷たい目でじっとみつめる。他人の目でみつめる。

    五、作る立場で 作る立場で多く読む、作る立場で多く見る、作る立場で多く聞く。

      六、筆まめ とにかく作る。

 25 教師とは寂しいものです。しかし、教育は楽しいものです。生きがいのあるものです。裏切られつつ、それでいて、夢のある、しかもはかなく消えていく芸術です。

 26 教育は「みなさん」という呼びかけではダメです。固有名詞で呼ばなければ・・・・・。

 27 「われありて君あり」でも、「君ありてわれあり」でもいいです。五百人力の二人が対坐すれば千人の聴衆になります。古哲は独りひそかに己の顔を古書に照らして意気をふるいおこしたともいっています。

 28 五月晴れのさわやかな大気の中に、子どもの作文に読みふけることがどうして小さな人生であろうか。

 29 名授業とは教材に子どもを引き込むことではなくて、子どもが教材をかみくだくことだと考えたい。

 30 因幡の源左さんは「仕事にかかれば、ほっこりほっこりするがやあ。」と言っています。「仕事は苦役だ」とする現代の発想とどちらが人生的なものでしょうか。ほっこりほっこりするようなやり方で、仕事をし、勉強させたいものです。おとなになってから、ほほえみをもって思い出される授業をしたいものです。

 31 子どもたちがいつまでも忘れ得ぬ教師というのは、操守と寛容を備えた教師である。 ※操守:志をかたく守って変えないこと。また、その志。

 32 子どもが「話さずには、考えずにはいられなくなる」ような教育こそ大切です。時を待って、種をまく、芽が出る、花がひらく、実が結ぶ。その間には必ず時間がかかるのに、その時間をかけずに駆けようとしているのが現代ではないかと思います。

 33 近ごろ読書指導が論議される。名作で祖父が読み、父が読み、子が読む、そして、祖父や父の読んだ年月や感想がみられ、また子がその上に書き加えていったりするような読書があってもよいような気がする。

 34 真の国語実践家というものは、遠くから聞いて評判の高い人でなくて、足もとに近よれば近よるほど、すぐれた人材を育て、すぐれた学級を作り、すぐれた実践を持っている教師をこそいうのでなければならない。

 35 私が常日ごろ念頭にあるものは、私の学問を実践にうつした場合、ほんとうに実際社会、教育界の現場に役立つかということでありました。

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【西晋一郎先生】

 

 

 

【井上順理先生】

2025.01.23 Thursday