三谷祐児の国語工房

長年培ってきた国語の指導方法を公開しています。
現在、一番充実しているのは「国語が大切」です。
また、ブログ(終活最前線 おらの細道 おらのセレンディピティ等)も公開しています。
皆様のお役に立てば幸いです。

ブログ

2024-09-17 11:47:00

闘病俳句や入院川柳 入院中に作った俳句・川柳・エッセイを一挙公開!

 

 句集  生かされて

 

     

    はじめに

今回の手術に際しまして、Iドクター、Mドクター、K師長をはじめ、看護師の皆さん、そしてスタッフの皆さんに心より感謝申し上げます。退院して三週間ほど経ちましたが、お陰様で順調に回復しています。

さて、17日間の入院中に、いくつか俳句を作りました。その俳句をまとめましたので、感謝の気持ちとともにお届けいたします。休憩室にでも置き、お読みいただければ望外の幸せでございます。

なお、俳句は推敲いたしましたが、川柳やエッセイもどきは遊び心で作ったもので推敲などいたしておりません。どうぞクスッとお笑いください。

 

 

俳句

 

入院の朝梅漬けのガラス瓶

 

万緑や聞けこの脈動の烈しさを

 

傷口へ薬師の指や百合の花

 

小松菜の震える箸を齧りたる

 

万緑や生かされてまた靴を履く

 

ドクターの手に神宿る夏のオペ

 

「順調」とふ医師に微笑む梅雨晴れ間

 

煮魚の白き味して梅雨に入る

 

万緑を揺るがすほどの鼓動かな

 

酸マスに頬の膨らむ夏の夜

 

点滴の花満開の梅雨入かな

 

夏の痰のらりくらりの喉仏

 

マスクずれ酸素抜け出る夏の夜

 

酸マスに涙の滲む夏の夜

 

夏の夜に喉駆け巡る酸素かな

 

夏騒ぐ酸素マスクの呼吸音

 

吸い飲みのありがたさを知る夏の夜

 

酸マスに口岩石の夏の朝

 

もう二度と酸マスしないと決めた夏

 

蒸しタオル顔いっぱいに夏の朝

 

背中拭くタオルに清し麦の風

 

ふらつきもなきリハビリの梅雨晴れ間

 

入れる管出す管夏のすれ違ふ

 

一つだけ管の抜けゆく梅雨晴れ間

 

機器外るだけで身軽き夏至の朝

 

モニターへ五人の眼差し光る夏

 

押しピンとふカメムシのゐるICU

 

咳払ひして一吸いの冷麦茶

 

真夏日に快適過ぎるICU

 

伸びたるも短きを愛で冷素麺

 

また一つ管取れし日の冷素麺

 

白粥の夏一掬ひ一掬ひ

 

莢捨てて飛び出すものもゐるオクラ

 

ガラス器に二粒残るオクラかな

 

自呼吸で背中押したる昼寝かな

 

ドレーンとのお別れの日の冷奴

 

ICUのカオスを泳ぐキャベツかな

 

インゲンのゆでジャガイモを彩りぬ

 

日焼け手に点滴の針花盛る

 

ドレーン抜き体の軽き梅雨晴れ間

 

ICUの壁に浮きたる夏模様

 

幾たびも外の暑さを尋ねけり

 

冷たさといふおいしさに逢ふ麦茶

 

もも肉にレモン染み込む梅雨の夜

 

腫れている自分の体を拝む夏

 

心臓を作る昼餉の赤トマト

 

ICU出て病棟の夏の雲

 

足先を温めてゐる夏布団

 

暑き夜に擦られてゐる足の先

 

秋待つや錠剤舌へ一つづつ

 

心地よき声をいただく夏の朝

 

縫合の跡覗き見る夏の雲

 

ガラス器に四角に切らる南瓜かな

 

一片の雲の縦断夏の窓

 

夏河とイオンと鳥居と飛行場

 

園児バス二台通って梅雨上がる

 

横たはる戦傷兵のごとき夏

 

夕焼けに転がす足の冷たさよ

 

看護師の昔話に明け易し

 

あんなにも黒き便出る夏の朝

 

四方太忌や鉄分補給の黒き便

 

鉄線を潜り飛び立つ夏の鳩

 

澱みたる夏河にある川の澪 

 

雨上がり虹膨らます水平線

 

黒南風や北へ北へと貨物船

 

水平線夏の山まで上げてみる

 

梅雨晴や色取り戻す日本海

 

夕焼けに浚渫クレーンの早帰宅

 

梅雨空に一点白き波頭

 

夏河をぐるり廻りて投網かな

 

紫陽花や病弱の児の車椅子

 

紫陽花の車椅子より高き房

 

嬉しゅうてメロン皮まで食ふてみる

 

梅雨空を潜り降り立つ機翼かな

 

川 柳

 

納豆とお別れをして入院す

 

へその緒の名残りも取りし手術前

 

いざ手術スマホと別る夏の朝

 

ICU看護師みんな愛知るYOU

 

HCU看護師みんな叡智知るYOU

 

大手術五秒で終わる麻酔かな

 

無機質のICUに溢る愛    

 

踵より巻く包帯の温かさ

 

真夜中の酸素マスクにあっぷっぷ

 

ICU日にちと時間分からへん

 

病院食ふらつきありて食べられず

 

四十分かけて半分食べにけり

 

ブイ・クレスジュースの美味し筒もよし

 

阪神戦初めて見ない手術の日

 

病院にテルモの機器が目白押し

 

聞きなしや酸マス機械の「カケロスグ」

 

泳げません三途の川はまた今度

 

泳ぎ切れず三途の川を逆戻り

 

ありがたやナースの選ぶ本三冊

 

カロナール茶色でなくてよかったね

 

味の濃きヤクルトを飲み咳込みぬ

 

吸い飲みを作った人に感謝せし

 

ICU声のかけ方一つにて

 

手術後に新聞読めるありがたさ

 

イレギュラーの顔を抜け出る酸素かな

 

酸マスを付けて気分はパイロット

 

酸マスは洗濯ホースに似たりけり

 

もう一夜酸素マスクと戦へり

 

消毒後秋刀魚の如くあおがれり

 

痰を取るティッシュのやうな人もゐて

 

老いぼれがちんちんに管挿してゐる

 

リハビリや二足歩行の首痛む

 

痰といふ小僧が喉にのらりくらり

 

「生食」に「生牡蠣」思ふICU

 

うらやまし怒鳴る必要なき職場

 

教え子と三十年後のICU

 

窓に置く古通信に立つ光

 

あの頃の学級だよりに大夕焼け

 

聞き耳を立てても用語分からない

 

潮騒の音にも聞こゆ機械音

 

病棟の少し翳りて雨催ひ

 

点滴の管に割箸からみたる

 

パイプ吸うごとく気取って吸引器

 

採血でまた一週間の始まりぬ

 

ひげ剃ってウーマンダムのICU

 

感謝して食べれば肉となりにけり

 

人参やまあるく切ってジャパンジャパン

 

貧乏な学生時代の重さかな

 

看護師の昭和を語る顔美し

 

生かされて髭を剃りたるICU

 

病棟の鳩見習ひてうんこせし

 

白ご飯咀嚼で顎がだるくなり

 

デザートは十一種類の飲み薬

 

指輪なき薬の指を少し曲げ

 

遺書らしきものも仏間に置きにけり 

 

洗髪の水も漏らさぬプロの技

 

着陸機イオンの屋根を掠めけり

 

七日目に初めて覚ゆ「腹減ったあ」

 

連絡先ある嬉しさや手にスマホ

 

テーブルにお茶と尿瓶が両隣

 

看護の手薬師如来の施無畏印

 

物価高?夕食四分の一バナナ

 

夏なのにお昼のチャイム「冬景色」

 

退院に覚えきれない飲み薬

 

壁一枚外旅話おら薬

 

ワーファリン心の傷もさらさらに

 

痛風もおまけにもらひ退院す

 

無呼吸もおまけにもらひ退院す

 

病棟に忘れ物して退院す

 

三週目痛風まだまだしびれてる

 

 

短 歌

 

麻酔して五秒で終わる大手術華岡青洲大恩人なり

 

もう三日経ったと間違う手術後のICUの第一日目

 

横たわるICUの一丁目一番地にて再生する俺

 

遠近(おちこち)にテルモの機器あり北里柴三郎の功

 

動脈より採血をする指先の白く変わりて涼しかりけり

 

移動式レントゲン機に胸曝しキュリー夫人の偉業を思ふ

 

ささやきと手の当て方と眼差しと誠に誠に医は仁術なり

 

心カテの3画の心臓に祈りの千手観音を見る

 

「幸せの結末」の曲のイントロの出だしに似てる機械の出だし

 

ICU出て病棟の夏雲に一羽の鳥の飛べるを見ゆる

 

手術後の全管取れし解放感長女文恵の誕生の日に

 

 

 エピソード 1 不思議体験  浮かぶ画像

 

 手術後、ICUに一週間横たわっていた。三日目か四日目辺りであっただろうか、目を閉じるとある画像が浮かび上がってくるのであった。起きているのだから夢ではない。パソコンの画面で見るような風景画像なのだ。しかし、その画像は決してきれいな画像ばかりではなかった。

例えば、茶色い泥土の中に人が隠れ潜んでいる画像。この画像は四月に心臓カテーテル検査で入院した時も見た。不思議な画像であった。また、黄色い壁で手前に大きな黄色い風船が浮いている画像。サッカーの練習画面、トンボの静止画面、野球のホームラン保護ネットの画像、収穫をした野菜を並べた畑の画像。はっきりと思い出すのはこれらの画像だけだ。これらの画面が繰り返し出てくるのだ。ドローンでゆっくり撮影したような画面だ。潜在意識の中にある何かが作用したのであろうか。

目を開けると、ICUの天井が見えた。目を閉じると、また画像が浮き出てくる。誠に不思議な体験であった。残念ながらあの子は出てこなかった。

 

エピソード 2 不思議体験 新聞の字

 

六月十三日、手術後一日目。夕方、家内が読売新聞を持ってきてくれた。

タイガースファンのおらが、宿敵である読売新聞をとる理由は「編集手帳」「よみうり寸評」「四季」が面白いことと、中立な記事が多いこと、読み応えのある特集記事があることなどが理由である。

ほとんど食べられなかったが、夕食後、読売新聞を広げた。不思議な体験はその瞬間に起きた。なんと、新聞の小さな字が読めるのである。眼鏡なしで読めるのである。こんな感覚は忘れ去ってしまっていた。黒々とした新聞の小さな字が読める幸せをかみ締めた。心臓の手術をして視力までよくなったのである。こんなに有難いことはない。手術をして本当によかったと思った。

しかし、残念ながら眼鏡なしで読めたのはこの日だけだった。翌日からは、いつも通り、眼鏡をかける生活に戻った。なぜ、あの日だけ読めたのだろうか。誠に不思議である。

家内を見ても何も感じなかったことは内緒である。

 

エピソード 3 不思議体験 肺マッサージ

 

ICUにずっと横になっていた。同じ姿勢でい続けるのはかなり辛いものだ。寝返りまで行かなくても、少し体を動かしていただくだけで嬉しかった。

三日目か、四日目か、酸素の数値がなかなか上がらない、肺に水がたまっているような状態、そういう状況らしかった。肺気腫で死んだ祖父の顔が頭をよぎった。そういう時に、ある看護師さんが「肺マッサージ」をしてくれたのだった。右を下にして、背に枕を入れ、左の肺の辺りをさすってくれた。気持ちよさに感謝した。

やがて、マッサージは終わり、看護師さんは出ていった。しかし、誰かが引き続きずっと肺マッサージしてくれているのだ。「はて、誰?看護師さんは出ていったよな。誰が押してくれているんだろう?」振り向くと、誰もいない。そして、おらははたと気づいたのだ。枕だ。背中に当ててくれた枕がおらを押してくれていたのだ。おらの呼吸が枕を押す。枕はおらの肺を押す。枕を生かす看護師のプロの技なのだ。昭和時代に会得された技であろう。おら心臓の辺りが熱くなった。涙が出た。

 

エピソード 4  北里柴三郎

 

岡野雅行、サッカーの野人岡野雅行ではなく、岡野工業の岡野雅行をご存知であろうか。痛くない注射針を開発した町工場の社長さんである。(岡野工業は後継者不足から廃業)蚊は刺してもいたくない、ここから発想して痛くない注射針「ナノパス」を生み出した。共同開発に当たったのがテルモだ。

この痛くない注射針かは不明だが、点滴のための針を刺されても全く痛みを感じさせない看護師さんがいた。上手いもんだ(まあ、逆もいたが)。両腕に、多い時で六ヶ所ぐらい点滴の針が刺されていたのではないだろうか。おらの腕は点滴の針が花盛りであった。

ICUの中を見回してもテルモの機器が多い。テルモは、体温計、血圧計、血糖測定器等の医療機器分野で大きな社会貢献を果たしているのであろう。その創業者はなんと北里柴三郎だ。最近、よく聞く名前だ。新千円札の顔だ。千円札を見るたびに、細菌発見の功績だけではなく、テルモや注射針や今回の手術を思い出すことであろう。北里柴三郎にも感謝しなくてはならない。

 

エピソード 5  華岡青洲

 

アメリカのシカゴにある世界外科学会栄誉館に、一人の日本人医師が顕彰され展示されている。現和歌山県の医師、華岡青洲である。一八〇四年、全身麻酔により乳癌の摘出手術を成功させた人物である。欧米での全身麻酔成功例は一八四六年、それより四十二年も早い。日本人はすごいね。

今回の手術で全身麻酔にはとても興味があった。当初酸素マスクのようなもので麻酔が行われるものと考えていた私は、後で、点滴で行われることを知りたまげた。あの日、いつから麻酔薬が入ったものか、手術室に運ばれ、始まるなと思ったが最後、後は何も覚えていない。本当に全く痛いも痒いもない、羞恥も恐怖もない、何もない空白の時間。仮死状態だったのかも。約八時間後に、池田ドクターの「終わりましたよ」の言葉で麻酔から醒めた。五秒で大手術が終わった、そういう感じであった。本当は、その前に色々と反応を見ることも行われていたそうであるが、それも記憶にない。麻酔はすごいわ。

ありがとう、華岡青洲。一度、和歌山県紀の川市の記念館を訪れてみるか。

 

エピソード 6  キュリー夫人

 

ICUにいるとき、毎朝、レントゲンを撮られた。おらが動くのではなく、レントゲンが動いてくるのだ。おらはそのレントゲンに向かい胸を曝すのだ。その時、キュリー夫人の功績に感謝するおらだった。

キュリー夫人は、二度ノーベル賞を受賞している。それもすごいが、第一次世界大戦中に移動レントゲン車を作り、約百万人の兵士に治療を施し、多くの兵士を救ったとされる。それが強く心に残っている。放射能を人類に生かした例だ。

だから、毎朝の移動レントゲン機が来るのは楽しみでもあった。撮るとき「ハイ、チーズ」ではなく「サンキュウリー」と心の中で言っていた。

博識でしょ?何ということはない。手術前の六月一日、テレビのムービープラスで偶然「キュリー夫人」の映画を見たからだ。移動レントゲン機と聞き、映画の戦争場面が浮かんだ。

よくなったら三朝温泉に行くか。胸にラジウムが効くかもしれない。

 

エピソード 7 心地よき声をいただく夏の朝

 

入院中、たくさんの看護師さんにお世話になった。そして、たくさんの話をした。付き合って下さりありがとう。毎日のように担当が変わるのにも理由があるのであろうが、おらは十人十色のウオッチングを楽しんでいた。

看護師さんにとって、患者への声かけはとても重要な要素であると思う。特に注目していたのは声の音程。「ソ」や「ラ」の音程は気持ちよかった。

朝一番の明るい声はおらも心が弾んだ。会話の途中でも、勇気づけの一言は心に沁みた。何気ない一言に元気をもらった。退院が近づいてくるともっと話を聞けばよかったと後悔もした。

「いただきます」は食事のマナーで「命をいただく」ことへの感謝の言葉ではあるが、入院途中から「心地よき声」も「命をいただいていること」なのだと気づかされた。

命の瀬戸際で奮闘され、一隅を照らし続けるスタッフの皆さん、本当にありがとう。

プロジェクトx!

      

おわりに

 

もっと書きたいとも思うのであるが、まあ、この辺で。

新しい命をいただいたと思い、パキパキと鳴る機械弁の心臓を労わりながら、充実した人生を送りたいと考えています。

皆様、本当にありがとうございました。

 

 

2024-05-16 15:52:00

冠動脈CTとドクターの診察

冠動脈CTとドクターの診察

 

422日(月)、N病院で13:00より心臓冠動脈CTを受診した。

その日の昼食は絶食。カフェインの入った飲み物も禁止であったが、900頃にうっかりコーヒーを二口ほど飲んでしまったが黙っていた。

脈をゆったりとする薬剤を使用することもあるため、車での来院は控えてほしいとのこと、妻に送り迎えを頼んだ。

410日(水)に、カテーテル検査をしたとき、造影剤の関係か、体中がかゆくてしょうがなかった。今までにもCT検査は何度か受けてきたが、かゆくなることはなかったので安心していたが、あんなにかゆくなったのは初めてなので今日もかゆくなるんだろうなと覚悟はしていた。結論からいうと実はかゆくならなかったのだ。410日の分は、何か違う成分が入っていたのかもしれない。

検査などはよく待たされるものだが、今回のCTの撮影は早かった。すぐに「始めましょう」ということで、検査室の前で待った。

すぐに、検査室の控室に通される。大丈夫であろうと、ボタンではなくファスナーの服を着ていったら、ファスナーがよくないというので脱いだ。  脱いだら、寒いであろうということで病院服を貸してくれた。感謝だ。そして、点滴が始まった。

点滴のスタンドを転がしてCT室へ入る。寝て機械の中に入る。何度も何度も呼吸法の練習をさせられた。「息を吸って、はい、止めて。楽にして」というやつだ。普通のレントゲンやバリウムのときとは違って、止めている時間が長いような気がした。15秒前後だろうか。

いよいよ、ヨード造影剤の注入だ。一気に右肩、右胸、頭の辺りが熱くなってきた。今までで一番熱く感じた。頭が熱くなるのが気持ち悪かった。そういう中で撮影が行われた。撮影は本当にわずかな時間だった。熱さも足の方へ去っていった。

終わると1Fの処置室まで車いすで移動。人目を意識しながら移動した。30分ほど休むらしい。休む前に、尿意を感じトイレに行った。スタンドゴロゴロ。思った以上に出た。行ってよかったと思った。点滴分だなと思った。

「シンカテスリーディー」という看護師の声が聞こえて来る。「ワシのことだ。心カテ3Dだな」こんなことを思いながら聞いていた。

横になって休むと周囲の声が聞こえてきたが、寝ていた。目が覚めて会話を聞いていると、これから大腸ポリープの検査をする人への説明が聞こえてきた。心配そうに尋ねているが、大丈夫とアドバイスしたくなってきた。

点滴を外された。また、トイレに行きたくなり行った。また多く出た。それから、診察の前に院内のコンビニによって飲料水を買い飲んだ。うまかった。

診察室へ入る。そこで見たものは我が心臓の3D写真だった。その時、瞬時に何を思ったか。

 

愛ほしき母にもらひし心の臓

- シン(心臓のこと)ちゃん、ごめんな -

 

神おわす忝涙や心の臓

 

- シンちゃん、ごめんな -

 

なんと美しいんだ。

まるで神さまや。

父と母が浮かぶ。

こんなにすぐそばでがんばってくれてるんか。

精密機器そのもの。

この写真ほしい。

日本の医療はすごい。

 

それらの写真は、一枚のCDに収められていた。預かることはできないかな、と思ったが、次の病院へ送るということであった。そりゃそうだと思った。

そして、410日に見つかった冠動脈狭窄症の部位もはっきりと画像に映っていた。そこだけ本当に狭くなっていた。長い間の生活習慣病で作ってしまった動脈硬化の結果である。悪因悪果という言葉が頭に浮かんだ。ごめんなシンちゃん。

「他の血管を切り取ってバイパス手術を行うことになるでしょう。」

ドクターは言った。

とにかく、早く治して新しい命をいただく、そう願うおらであった。 

〈広告〉この商品お勧めです。

 

 

52日(木)、照会状を持ってC病院へ行った。そこで、次の検査を行った。

心臓超音波検査、心電図検査、フローボリュームカーブ測定を含む排気量分画測定、等。

心電図検査では今までやったことのない検査があった。四肢に器具を取り付け、血圧を測定するという検査だ(専門用語は分からない。間違いがあってもごめんなさい)。担当の女医?担当者?研修医?は、もし四肢で数値が違えばどこかの血管が詰まっている可能性が分かると言った(ちがっていたらごめんなさい)。診療明細を見ると「四肢単極誘導及び胸部誘導を含む最低12誘導」と書いてあったが、ちんぷんかんぷんや。1回やって、「すみません、つけ方まちがえました。」ってその若い担当者が言った。「おいおい、大丈夫かいな。」と心の中で思った。まあ、数値に違いはなく、正常ということであった。

同じ担当者であったが、排気量の検査もした。何で排気量の検査が必要なのか聞くと、「手術中の呼吸が正常に行われるようにするためだ」と言う(私の聞き間違いの可能性あり)。もう、手術に向けて動いているのだ。排気量には変な自信があった。45年前か、4800近くあり「なんかスポーツをされているんですか?」と問われたことがある。スポーツ選手並みであったのだろう。「いや、楽器やってます。」と応えると、納得されたことを思い出した。今回も落ちたとはいえ4200ぐらいあったと思う。フローボリュームカーブも正常だった。

 

 〈広告〉 この商品お勧めです。

今や、防災グッズは必需品。命の次は生活。大切な人へどうぞ。

 

 

 

一連の検査を終え、ドクターの診察が始まった。

422日に撮った3D画像や今日撮った画像を見ながら説明を受けた。新たに分かった主なものをあげると、

 

    心臓は1回の脈動で血液を250㏄送り出すが、おらの場合は、110㏄ほどが逆流している。つまり約半分近くが逆流している。  ※ シンちゃんごめん。

    左心室が肥大しているが、ゴムが伸び切った状態である。  ※ シンちゃんごめん。

 

伸び切ればそりゃ息が切れだるくなる

- 伸び切ったパンツのゴムやん -

 

    冠動脈は左右に分かれてあるが、右はきれいで正常。ただし、左のここが狭くなっている。この狭窄部は90%が詰まっている。  ※ シンちゃんごめん。

    大動脈弁は3つあるうちの1つが欠落している。

 ※ もしかしたら欠落ではなく逸脱だったかもしれない。そりゃ逆流するわいなあ。 弁の欠片はどこへ行ったんやろ?

○ 大動脈弁の手術は、A生体弁とB機械弁を使う方法がある。メリットデメリットは、

  A:生体弁は牛(や豚)の弁を使う。術後血液をサラサラにする薬は飲み続けなくてもいいが、10~20年という寿命がある。寿命が来たら取り替えなくてはならない。

  B:機械弁は永久的。ただし、血液をサラサラにする薬を飲み続けなくてはならない。

 

機械弁!二回も手術できまへん

- 一石二鳥や -

 

    どちらにしますか?と問われたので「機械弁にします」と即答した。人から聞いていたのは、豚の弁だった(この手術用に飼育されている豚もいるように聞いた)が、豚のぶの字も出なかった。でも、絶対に人工弁、機械弁がいいと思った。二度も手術できるかい。

    弁膜症の手術と冠動脈狭窄症の手術を別々にやる方法もあるし、1回でやってしまう方法もある。どちらにされますか?

 

一回で!二回も手術できまへん

- 一挙両得や -

 

    1回でお願いします。」と即答した。

    危険率は4~5%。手術後の感染症が多いのだという。だから、歯の検査をするのだという。

    成功率は95%以上か。いいじゃないか。やるしかない。

 

こういうことで、手術を6月にやることになった。出来るだけ報告はしようと思うが、麻酔が効いている間は記憶がないのだろうからお伝え出来ないのが残念である。

以上、今回は、「冠動脈CTとドクターの診察」というテーマでお送りしました。

 

 

 

 

 

 

2024-04-22 16:22:00

おら冠動脈CT検査を受ける

 4月22日(月)、13:00より冠動脈のCT検査を受けた。だんだん、手術に向け、階段を上っていく感じだ。

12:50に受付を済ませ、循環器内科へ行く。5分ほど待ったら、すぐにCT検査室へ案内された。

先ず、ファスナーのついている服はダメと言われ脱いでシャツ1枚になった。寒そうだからと言われ病院服を渡してくれた。ベッドに横になると、左手に5分ごとに計測できる血圧計を装着、右手に点滴を装着、胸に心電図の計器を装着された。

〈広告〉 この商品お勧めです。

今や、防災グッズは必需品。命の次は生活。母の日のプレゼントにどうですか。大切な人へどうぞ。

 

点滴針装着の際、年配の手慣れた感じの看護師が言った。

「針、太いですよ。」

「痛そうですね。」

とおらが言う。

「痛いです。」

とはっきりとした返事が返ってきた。かえって気持ちよかった。

確かに少し痛みを感じたが、大したことはない、点滴が始まった。

メモも写真もとれないので後はうろ覚えであるが、ご容赦願いたい。

15分ぐらい点滴を受けていただろうか、検査を始めるという。

看護師さんに付き添ってもらい、点滴をぶら下げたスタンドを転がしながらCT検査室へ向かう。

角を右に曲がり、長椅子の左端に座っていたら、私より年配の女性が「座っていいですか?」と聞いてきた。

長椅子の私の右側はがら空きなのに。「なるほど、辛い時は一歩でも早く座りたいものなのだ」と思いすぐに席を譲った。

今度からは、状況をよく考え、より弱者のことを考えてすわろうと思った。

名前を呼ばれ、検査室に入る。ベルトを外し、ズボンを膝まで下げる。

5分ごとの血圧計と心電図計測器が再び装着される。

万歳の姿勢をとらされ、軽く固定される。この姿勢が20分ぐらい続いたであろうか、結構しんどかった。

呼吸法のことを何度も言われた。

「大きく息を吸って、止めてください。」のあれだ。

息を止めている間は結構長く15秒前後止めていたと思う。

鼻から息が抜ける場合があるので注意するように言われる。かなり厳重だ。

15分ぐらいたっただろうか。

「心臓の動きをゆっくりにする薬を舌の裏に吹きかけます。」と言われた。担当はおらのマスクを下げ、おらは舌を巻いた。

薬の名前は分からないが、スプレーを2回吹きかけられた。かなり痛い感じでピリッと来た。

「では、造影剤を入れます。」

と言われ、一気に造影剤が入ってきた。

過去に何度も造影剤を入れて画像を撮ってきたが、今回が一番熱く感じた。一気に熱さが来てそして去っていった。

そのわずかな時間にCTが撮影されたのだ。おらは息をしっかりと止めた。

ズボンを直し、ふらつきによる転倒防止なのだろう、車いすに乗って1階中央処置室に下りた。そこで約30分間点滴を打ちながら休むのであった。

休む前に尿意を催しトイレに行った。思った以上に多く出た。行ってよかったと思った。

30分横になって休んだ。周りの声がうるさいが、しばらくしたら寝た。目が覚めると、看護師と男性の会話が耳に入ってきた。経験のある内容だった。大腸の内視鏡検査のことだった。心の中で「がんばれよ」と声をかける。

30分経った。血圧を測る。上147高かった。服を直し、中央処置室を後にした。トイレに行き用を足す。また、かなり出た。院内のコンビニにより、サントリーの「朝摘みオレンジ」を買った。冷たくてうまかった。

2Fの診察室でドクターの診断を受ける。その時見た画像が、さっきCTで撮った3D画像だ。なんとおらの心臓の周辺が、肝臓の辺りまであったか、くっきり鮮明に映っていたのだ。その見事さに圧倒された。写真を撮りたかったが許可されないと思い言うのをやめた。冠動脈狭窄症の部位も確かにくびれていた。日本人として生まれ、日本の医療が受けられてよかったと思った。

5月2日にC病院で検診を受け、そこで手術の日程を決める運びとなった。15:20診察室を後にした。薬局で薬を処方してもらい、迎えに来た妻と孫とともに帰宅した。15:40帰宅。

 

 〈広告〉 GW この商品お勧めです。

 

異変を感じてから、ここまで3か月かかった。あと、もう少しだ。

早く治して、元気になり、小旅行や家庭菜園や国語の授業を楽しみたいと思う。

物事の見方が以前とは少し違って見えるようになるのかもしれない。

それもまた楽しみでもある。

 

 

 

 

 

 

 

2024-04-14 17:23:00

心臓カテーテル検査入院の全て

実録 心臓カテーテル検査入院の全て

 

年明けて狭心症か心不全   - 神様からのお年玉 -

 

2024年(令和6年)が明けた。しかし、1月より咳やちょっとした息苦しさ、そして上半身のだるさ(特に両腕から肩)を感じるようになった。そういう時に血圧を測ると180付近まで上がっている。しかし、しばらくすると落ち着くのであった。多分、コロナやインフルエンザの後遺症であろう、暖かくなったら治るんちゃうかな、程度のことしか考えなかったのだ。

 そして、それは起こった。125日(木)の夜のことであった。この日、2430頃、何かおかしい感じがしてベッドに上半身を起こした。すると、両腕から肩そして上半身へと段々に軽い痛みを伴いながら体が強張っていくのであった。なんだ?何が起こったんだ?このだるさは一体何なんだ。動けん。どうする、家内を起こすか?救急車は?息はできるが苦しい。寒いはずなのに冷汗をかいている。気がついて暖房をつける。だるい体を動かして何とか血圧計まで辿り着いた。計るとなんと220。ビックリした。死を意識した。脳は大丈夫か。怖い。正直怖かった。

血圧を何度も何度も計り続けた。すると次第に少しずつではあるが下がっていくのが分かった。横になり安静にすれば落ち着くと判断し横になった。血圧140ほどになるまで1時間40分ほどかかった。午前220頃眠くなって血圧を測るのを止めた。すると、朝までなんとか眠れた。

 

〈広告〉 この商品お勧めです。

今や、防災グッズは必需品。命の次は生活。大切な人へどうぞ。

 

126日夜は何事もなかった。

 しかし、1月27日、28日、29日の深夜、3日連続で25日に経験した発作もどきが起こったのだ。おらは恐怖に襲われた。ユーチューブを見て、安静にするのは横になるより座位がいいことが分かっていた。だから、椅子に座って回復を待った。25日は、落ち着くまでに1時間半近くかかったが、27日以降は30分前後で落ち着くようになった。

 130日、流石に怖くなりかかりつけ医に診てもらった。いつもは冗談交じりに2・3分で終わる診察も、この日はいつになくドクターの目が真剣だった。「肺か心臓か、狭心症の疑いがある。兎に角、薬を出すから1週間様子を見ましょう。」ということで、ニトロダームという血管を広げる張り薬、ニトロペン舌下錠という発作が起こった時の薬、いつものアムロジピンという降圧剤を処方してもらった。それ以来、夜の苦しみはなくなった。薬様様である。

 26日(火)、一週間が経ち、再度かかりつけ医を受診。「大きな病院で診てもらった方がいい。」と言われ、紹介状を書いてもらう。

 27日(水)N病院受診。循環器内科のOドクターは胸に聴診器をあてるなり言った。「血液が逆流していますね。手術しましょう。」

 病名は大動脈弁閉鎖不全症。左心室から体全体へ流れなければならない血液が、大動脈弁が完全に閉鎖しないために逆流しているのだという説明であった。

心臓弁膜症の一種かなと思ったが、よく分からない。血液がうまく流れないために体がだるくなり、血圧が上がるのかなとも思ったがよく分からない。

 分からないこともある。しかし、その日行った血液検査で、心臓の頑張り度を示すBNPという値に驚愕したのである。健康な心臓であれば20,100までで要観察、200までで手術必要ということなのだが、おらの数値はなんと340.8。それを知り、一刻も早く手術をしなければと判断した。

 先の三種類の薬に、新たにアゾセミド(利尿剤)という薬を処方してもらった。何で利尿剤?と思ったが、心臓のむくみをとる薬らしかった。これらの薬のお陰であろう。1か月間、夜の苦しみはないまま過ぎた。しかし、寒い中での動きがダメだった。暖かい所から寒い所へ出て動くと、特に両腕を下にして前かがみになって動くと、鈍い痛みが走りだるさを覚え鼓動が速くなった。そういう時は、すぐに暖かい所に移動し椅子に座って回復を待った。

  313日(水)2回目のN病院受診。1ケ月間の報告を行う。BNPの値は174まで下がっていた。でも、まだ手術が必要な値であることには変わりがなかった。さらに1ケ月分の薬をもらった。検査入院の説明を受け、病院を後にした。先ず検査入院をすることになった。49日(火)入院。10日(水)心臓カテーテル検査(心カテ)。11日(木)退院。このような流れが決まった。

 

飲まないと数値は見事に下がります   - ガンマの数値 -

 

 おらはよく酒を飲んでいた。毎日焼酎2号ぐらいは飲んでいた。飲めるのだ。飲んでも酔わないと言った方がいいか。アル中ではないが、アルコール依存症ではないかと自分でそう思っていた。アルコール関係の肝臓の頑張り度を示すγ-GTP(正常値は55以下)はいつも高く、70~120辺りを行ったり来たりしていた。

そのいうおらであったのだが、130日の夜以来、一滴も酒を飲んでいない。今日は410日だから約70日酒を飲んでいないのである。きっぱりと。ヘヘッ。そうすると、γ-GTPの値がどうなったか、何と2週間後に47まで下がったのだ。さらに40日後、何と24まで下がったのである。へえ、飲まなかったら下がるんだ。数値は正直だと思った。

発作が起こったら大変と思い、アマゾンでメディカルペンダントを購入した。金属の鎖が短くて頭を通らないので、水屋の中にあった紐を代用した。ペンダントの中に、ニトロペン舌下錠1粒と住所や連絡先、血液型や薬の処方等を書いた紙を入れ込んだ。また、周囲の人に気づいてもらうために笛ではなく(笛を吹く体力が残っていないかもしれないので)電動のホイッスルを購入した。常時携行し、万が一に備えたいと思ったからだ。

元旦に能登を大きな地震が襲ったが、災害はいつ何時起きるか分からない。メディカルペンダントや笛、電動ホイッスル等は防災用品の一つとして是非とも備えておくべきであろう。

 

〈広告〉 この商品お勧めです。

今や、防災グッズは必需品。命の次は生活。大切な人へどうぞ。

 

  

49日(火) 

孫は入学式おらは入院式   - ピカピカの1年生 - 

 

この日、孫は小学校の入学式。おらはN病院へ入院式じゃ。いや、めでたい、めでたい。

時系列で紹介しよう。

12:40 家内の車で病院へ。雨小雨。

12:55 病院着。受付をすませ、2Fの循環器内科へ行くき待つ。

13:10 コロナの有無の確認のため、鼻腔へ綿棒を突っ込まれる。「痛え」おらは仰け反る。追い打ちをかけて来る綿棒。右左、痛かった。

13:15 採決と採尿のため1Fに下りる。待たされる。文句は言うまい。

      済んだら循環器内科へ。ずっと待つ。

14:00 待ち時間が長いのが病院だ。時間待ちを知らせるボードには「現在、11:00~11:30の予約の方を診察中」と出ている。2h半~3hの遅れじゃ。おらが最初に診察に来た時も、9:00に来て、終わったのは15:30だったからなあ。でも、みんなじっと待っている。前の職場なら絶対に考えられないことである。

14:15 家内を帰らす。

14:20 コロナ陰性と判明。

14:30 指示を受け、1F入退院支援室に下りる。待つ。

14:40 ここで持参した書類や薬、保険証等の確認を行う。お薬手帳を忘れたことに気づく。薬預ける。また、待つ。

      担当者曰く「病棟より、お迎えが来ますので、前の椅子に腰かけてお待ちください。」おら心の中で「お迎え?あれみたいやな。お迎えは要らんわ。」と思う。-お迎えはまだまだ早いと追い返せーの川柳を思い出す。

14:50 病棟より担当者が迎えに来て西病棟の5Fに案内される。

      若い看護師に病室へ案内される。

15:30 血圧を測る。高い。パンツを下げられ、若い看護師に股の毛をシェーバーで剃られる。きれいに剃られたワイ。これも初めての経験だ。息子はチン座したままだった(笑)。これじゃあ、当分、銭湯にいけないな、そんなことも考えていた。

 

      手首足の甲胸にマーキングされる。右と左を間違われた。大丈夫かいな。多分緊張を和らげるために故意に間違えたと言ったんじゃろう。

15:40 長い夜に向けて時間が流れ始める。看護師長が挨拶に来る。若い看護師が検査着を持ってくる。検査着の下はスッポンポンになるとのこと。もう、恥も外聞もないね。

若い男の薬剤師来る。最後に「何か質問がありますか?」と聞いてきた。「ありません。」と応えながら、心の中で「そういう時は、何かご不明な点がございますか?と言うのがええよ~。」と思った。

17:00 若い看護師来る。心カテパスのパスの説明にしどろもどろ?大丈夫かいな。

17:15 1Fコンビニに買い出しに行く。病院のコンビニは高い。次回は持参やな。

17:30 シャワーを浴びに行く。狭い。病院のシャワーはこんなもんか。座椅子等も置いてある。温泉とは違うのだ。そそくさと出る。

17:50 隣の大部屋から大きな声や音が漏れて来る。個室にして大正解。同部屋の人は大変やろうな。医者も患者を選べない。少し大きい子どものようだ。しきりにお母さんを呼ぶ。お母さん大変だけど頑張って。

18:00 阪神戦をスマホで聞き始める。

18:10 担当医の荻野先生が研修医を引き連れて様子見がてらと明日の挨拶に来られる。研修医は若い女医さんだった。「明日は心臓の専門医が担当するので大船に乗ったつもりで・・」と言われる。正直よかったと思う。

18:20 夕食をいただく。「高心食C」と書かれている。どんな意味で高心食なんやろ。赤魚の煮つけ、まあまあ味がある。茶碗蒸し味なし、正直不味い。ひじきのサラダ味なし、正直不味い2。後はご飯とバナナ半分。バナナの甘さが嬉しい。食べ終わって、コンビニで買ってきたサンドイッチとおにぎりをおいしく食べた。やっぱりこれぐらいの量と味がないとな。

18:40 料理を下げに来る。係の人に「ちょっと寒くないですか?」と言われたので「さっき、温度を上げたんですよ。」と言ったら、フフッと笑って「運転を押さないと上がりませんよ。」と言われた。「じゃあ、さっきまでエアコンついてなかったんだ。」「フフッ、そうみたいですね。」温かくなってきた4月に感謝だ。

19:00 面会時間終了の放送。1日が終わっていく。

21:00 阪神勝利。阪神タイガース川柳を打ち終わったら、急に睡魔に襲われ横になった。いつもと違う環境に眠くなったか、そのまま寝ていた。

22:00 多分22:00。見回り。ご苦労様です。またすぐ寝る。

 0:00 多分0:00。見回り。ご苦労様です。またすぐ寝る。

      他の見回りには気づかず。

 

410日(水)

 5:00 目が覚める。また寝る。

 6:00 起床。いい天気だ。しばらくすると日の出。ご来光を日赤の5Fより拝む。孫たちも元気に学校へ行くことであろう。

      入院の記念だ。「WONDA金の微糖プレミアムエスプレッソブレンド」を140円も出して買う。何が微糖だ。甘すぎる。

 6:55 若い看護師来る。夜勤の看護師さんかな。ご苦労様。熱361℃、血圧143ちょっと高め。検査まで心電図をとるということで首から計測器をかける。こういう機器を作り続けている企業もあるのだ。「NIHONKOHDEN」とある。有難いことだ。

 7:20 先ほどの若い看護師来る。もしかしたら電極が外れているかもしれないというのだ。実は、おらも画面から青い波が消えたからもしかしたら不具合でもあったのかと思っていたのだ。案の定赤い電極が外れていた。これ多分心電図が管理担当のパソコンに送られているんじゃないかなと思った。

 7:50 朝食来る。白米180g。にんじん、ブロッコリーの煮たの。南瓜と玉ねぎのコンソメ煮。ヨーグルト。ヨーグルトにスプーンがついていない。文句言おうかと思ったが、箸で食べ始めた。食べ始めて、準備物の中にスプーンがあったことを思い出す。ああ、このためのスプーンかと思ったが、そのまま箸で食べた。野菜の味がよく出ている。これを不味いという。健康で味の濃いものが食べられる幸せを思う。

 9:00 少し寝る。

 9:30 部屋の掃除に来る。検査までが長い。

11:10 検査着に着替える。

11:15 点滴開始。生理的食塩水500ml2袋。

11:30 何と12:30から検査を開始する旨を告げられる。精神安定剤を飲む。早いのはいいが家内に連絡が取れない。

12:15 やっと家内と連絡が取れる。しかし、会わないまま2Fの検査室へ。ストレッチャーに乗せられ移動。天井を見ると、動きが速くて目が回りそうだった。目を閉じた。

12:30 検査開始。いろんな準備がせわしく行われる。四肢を固定される。特に右手は頑丈に固定。手首や股を消毒される。冷たかった。多分、チンチンも丸出しや。頭上や胸部に映像カメラ?が2台迫って来る。

      期待していたモニターは見えなかった。局所麻酔もされたと思うが分からなかった。体が固定されたので視覚は使えず、情報は聴覚のみとなった。

      まず、肘から静脈にカテーテルを入れる。次に動脈にカテーテルを入れる。入れるときがチクリチクリと痛かったが、その後は痛みは感じなかった。毛を剃った股からは入れなくて済んだ。

      いろんな角度から撮影をしていた。CTを撮るための造影剤を入れたのだろうが分からなかった。造影剤独特の体が熱くなるような感覚もなかった。

      尿意があることを知らせると、尿瓶を息子に付けてくれた。結局最後までしなかったが・・・。

      何回か、腰は痛くないかと聞かれた。「大丈夫」と応える。

      検査後、カテーテル挿入部分、特に右手首の止血バンドの固定が慎重に行われた。それもそうだ、動脈から血液が噴出したら大変だ。看護師が「サイボーグみたいになりましたよ。」と言った。おらが「やっとサイボーグになれたか。」と言ったら、研修医か看護師か分からぬが「楽しい方ですね。」と笑った。

15:00 家内が検査室へ入って来る。モニターを見ながら、家内と説明を聞いて終了。

      ところが、モニターには、ネットで見た冠動脈狭窄症の画像と同じものが映し出されていた。見事に細く詰まっている。おらを苦しめていたのはこの部位だ。心筋梗塞の手前だった。危ねえ。

      大動脈弁閉鎖不全症の他に左心室の冠動脈に異常(冠動脈狭窄症)が見られるとのこと。二つを同時に治すか、それとも一つずつ治すか?方法は二つあるが…と言われ、「同時に治します。」と即答する。手術は別の病院で行うらしい。心臓外科手術はそこでしかやっていないということだった。

それらの日程について明日11日に詰めるとのことであった。

15:15 病棟へ帰る。昼を食べてないので腹が減った。家内が勝ってきたコンビニのおにぎりなどを食べ、少し寝た。

      カテーテルを入れた右手動脈の止血バンドの空気を少しずつ抜いていく。右腕の固定が取れたのは18:00前だった。後は手首止血バンドだけ。サイボーグは人間へ戻った。

17:30 担当医O先生来られる。今後の日程について話し合う。

18:10 夕食来る。阪神戦を聞きながら食べる。点滴が減らない。

19:40 まだ、点滴が残っている。後1時間ぐらい頑張ってと言われる。

20:40 まだ、点滴残ってる。阪神戦も終わる。

21:40 点滴外せ!俺は寝たいんや。

22:04 看護師来る。やっと外せるかと思いきや、「あと15分ぐらいですね。少し早めますね。」と言う。がっくり来たが、後15分と慰め、怒ったらあかん、怒ったらあかんと自分に言い聞かせた。

22:20 やっと点滴外れる。心電図は朝までつけておくらしい。

      なんか、連絡がうまくいっていない気がする。が、怒らない、怒らない。看護師に疑問に思ったことなどを聞いた。疑問が解け、寝た。

 

411日(木)晴れ 

 

6:00 起床。髭を剃り、顔を洗う。

6:50 看護師来る。カテーテルの止血バンドを外す。部位にカットバンを張る。楽になった。

 7:50 朝食。歯磨き。ズボンを履く。後は心電図を外すだけだ。

 9:20 清掃担当来る。

 9:50 心電図外す。やっと外れた。上着を着替える。心電図を入れていた首から下げる袋は要りますか?と尋ねられた。もう使い捨てで捨てるらしい。農作業に役に立つかもと思いいただくことにした。

      妻来る。

10:10 Oドクターより、5Fの相談室で検査の説明を受ける。昨日より丁寧に説明していただいた。モニターには、閉じていないおらの大動脈弁。そして、冠動脈狭窄症。何度となくネットで見た画像と一緒だ。見事に狭窄、詰まる寸前だ。もう一歩進めば心筋梗塞であの世行きの所だった。昔ならもうあの世に行っていたことだろう。早く見つかってよかったと感謝した。

      422日にCT検査をすることになった。ここまで来れば、早く手術をして完全復活を遂げたいものだと思った。手術は、422日の検査を見てからということになった。GW明けかなと考えてみたりする。

      CTや手術に向かってであろうと推測するが、処方された薬が違ってきた。以下が処方された薬である。

 

    ビソノテープ2mg 貼り薬

 脈の乱れを整える薬。かぶれを防ぐために毎回少しずつ場所を変えて貼ってくださいと注意書きがあった。2センチ角程度の小さいシールである。これが命を支えてくれるのだ。70日間貼り続けたニトロダームは卒業となった。新しい薬。

 

    ランソプラゾールOD錠15mg「トーワ」

 鎮痛剤服用時における胃潰瘍、十二指腸潰瘍の再発抑制。

  胃薬かな?新しい薬。

 

    ロスバスタチンOD上「DSEP」

 血液中のコレストロールの量を下げる薬。

 コレストロールの値が高かった。この薬で下がるのであろう。なんでもあるもんだと思う。今度の血液検査の数値が楽しみだ。新しい薬。

 

    アゾセミド錠30mg「JG」

 尿を出してむくみをとる薬。これは、前回のままの処方であった。

 

    アムロジピンOD錠「VTRS」

 末梢の血管を拡張して血圧を下げる薬。15年ぐらい飲み続けているおなじみの薬。

 

    バイアスピリン錠100mg

 血を固まりにくくし血液の流れをよくし、血栓ができるのをおさえる薬。新しい薬。

 

11:00 会計をすませる。二泊三日の心臓カテーテル検査の旅、費用は103,886円であった。入院費は保険で出るかな。

11:20 帰宅。ああやっぱり家が一番いいわい。死ぬのは自宅がいいね。

 

薬のことを書いているときに思い出した。検査入院中に皮膚がかゆかったのだ。両腕や首回りが特にかゆかった。ニトロダームを貼っていたのでその影響かと思っていたが、今考えると、CTの造影剤とか点滴とかの影響かもしれない。よく分からない。

今退院して3日目になるが、痒さは全くない。

 

ここまでお読みくださり誠にありがとうございます。

心臓カテーテル検査に臨まれる方に少しでも参考になれば幸いです。

 

恐らく、GW明けに大動脈弁閉鎖不全症と冠動脈狭窄症の手術に臨むことになると思いますが、その時の情報もお伝えしたいと思います。請う、ご期待。

 

 

 

 

 

 

 

 

2024-04-04 16:46:00

Iへの手紙

Iへの手紙      20240403

 

ピリオドを手紙に託し弥生終わる

 

孫のI4年間通った幼稚園を卒園した。

3歳から6歳までの4年間、Iは朝晩片道約1時間かけて幼稚園に通った。

Ⅰは、朝720分には家を出て、夕方5時ごろ幼稚園バスに揺られながら帰ってくる。

そして、その幼稚園バスには、同乗していつもIの面倒を見てくれたH先生がいた。

年の頃60代後半、優しいお婆ちゃん先生である。

 

Iの迎えのほとんどを爺と婆、つまりワシと家内が担当した。

328日(木)はワシが迎えた。

ワシの最後の担当の日だ。

H先生もおられた。

ワシは4年間の感謝をH先生に伝えた。

すると、H先生が言われた。

「明日が最後ですね。私手紙を書こうと思っているんです。」

帰ってそのことを家内に伝えた。

 

〈広告〉 GW この商品お勧めです。 

 

3 29日(金)、家内はH先生に渡すお礼の品を買ってきていた。

いつもながらよく気が利く女だ、とワシは感心した。

そして、家内はIを迎えに行った。

家内のことだからずい分と丁寧に感謝の気持ちを伝えたことだろう。

 

そして、家内はH先生からの手紙を持って帰ったきた。

その手紙には便箋5枚、Iと両親、そして私達にあてて書かれていた。

案の定Iの良いことが書き連ねてあった。

長い時間をかけて書かれたことであろう。

目が止まったのは、「私も今日で園とお別れすることになりました。」という一文。

長年園に携わって来られた最後の4年間をIと過ごしてくださったのだった。

最後が迫って来るこの数日をどのような思いで過ごされてきたのだろうか。

カウントダウンの中でIとの思い出が浮かんでは消え浮かんでは消えしていたことであろう。

人はなぜ手紙を書くのだろうか。

ありがとうございます、H先生。

感謝しかない。

 

いつかはだれでもピリオドを打たなければならない時が来る。

区切りの331日だ。

そして、私も、今日、長年の仕事にピリオドを打った。

 

Iよ、いつか必ず手紙を読むんだよ。

手紙は羅針盤だよ、宝物だよ。

人を想い、素直で優しい大人になってほしいと願っている。

 

〈広告〉この商品お勧めです。

今や防災グッズは必需品。命の次は生活。大切な人へいかがですか。

 

♪ 手紙 作詞・作曲・歌手 アンジェラ・アキ ♪

拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう

十五の僕には誰にも話せない 悩みの種があるのです

未来の自分に宛てて書く手紙なら きっと素直に打ち明けられるだろう

今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は 誰の言葉を信じて歩けばいいの?

ひとつしかないこと胸が何度もばらばらに割れて

苦しい中で今を生きている 今を生きている

拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです

自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる

荒れた青春の海は厳しいけれど 明日の岸辺へと 夢の舟よ進め

今 負けないで泣かないで 消えてしまいそうなときは 自分の声を信じ歩けばいいの

大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど  苦くて甘い今を生きている

人生のすべてに意味があるから 恐れずにあなたの夢を育てて  Keep on beliebing

負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は 誰の言葉を信じて歩けばいいの?

ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうなときは 自分の声を信じ歩けばいいの

いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど 笑顔を見せて

今を生きていこう 今を生きていこう

拝啓 この手紙読んでいるあなたが 幸せなことを願います

1 2
2024.10.19 Saturday